top of page

沿革

1919年11月22日、中田助教諭(大阪府立高等医学校)が法医学科長を命ぜられ、主任者(試講)として法医学講座を担当することになり、大阪大学医学部法医学講座の歴史が始まりました。

開設時は大阪府北区宗是町(現在の中之島)に所在しており、初期における解剖は大阪府下全域にとどまらず、和歌山県、奈良県からの解剖依頼もあり、遠隔地で発生した事件では出張して解剖することも多くありました。

 

現在では、大阪大学のほか、大阪公立大学、大阪医科薬科大学、関西医科大学、近畿大学の5大学で地域ごとに分担するようになっていますが、年間300体強の司法解剖を行っています。

一方、1946年に全国に先駆けて、大阪府死因調査事務所(現大阪府監察医事務所)が教室内に併設され、1990年に教室が吹田キャンパスに移転(監察医事務所は大阪府中央区馬場町に移転)するまでの間、82,802体の検案と34,521体の解剖を行ってきました。現在も、連携して大阪府の死因究明に貢献しています。

1_edited.jpg

初代 中田 篤郎 教授 1919(大正8)年~1943(昭和18)年

開講前から火傷、日射における副腎の変化に関する研究を展開、この分野での​日本における先達的業績を残している。

また、急性死と胸腺の残溜並に胸腺淋巴腺性体質に対する疑義(1922)と題する論文を国家医学雑誌に発表し、その後の教室の重要テーマとして受け継がれることとなった。​この他に、中毒、血痕検査、個人識別などの実際問題に関する研究も手がけ、犯罪捜査と紫外線(1930)などの発表がある。

2_edited.jpg

二代目 大村 得三 教授 1943(昭和18)年~1958(昭和33)年

1951年に日本法医学会総会において「胸腺における研究、特に胸腺性体質に就いて」と題して宿題報告を行うなど、胸腺に関する研究が教室の主要テーマとなり、多くの研究が発表された。

1955~58年頃にペニシリン注射によるショック死が多数発生したことを契機に、薬物異常反応の原因解明のために、胸腺の研究をはじめとしていわゆる内因的急死の解明のための研究が展開され、その後の松倉教授時代にも引き継がれることとなった。

3_edited.jpg

三代目 松倉 豊治 教授 1958(昭和33)年~1970(昭和45)年

前任の徳島大学在任中から指紋の遺伝に関する研究を行っており、大阪大学時代に行われた研究は法医学の社会活動の一つとしての個人識別、特に親子鑑定の基礎資料として写真像作図法とともに実際面で重要なものとされる。

また、日本法医学会に呼びかけ、1960~64年の5年間に剖検された薬物ショック死例を集録、詳細に検討し医療事故の防止などに役立つ資料を作製したほか、日本医事法学会設立に尽力した。

4_edited.jpg

四代目 四方 一郎 教授 1972(昭和47)年~1988(昭和63)年

死後硬直、特に心筋の死後変化に関する研究、医療事故に関する研究、覚せい剤中毒に関する研究などを行い、死後硬直については1973年の法医学会総会での特別講演にて「筋肉に死後変化、特に死後硬直に関する研究」と題して報告された。

また、若杉助教授とともに行った、医療事故死474例についての統計学的解析(1976)は我が国の先駆的な研究であった。

5_edited.jpg

五代目 若杉 長英 教授 1988(昭和63)年~1996(平成8)年

この時代の研究テーマは多彩であり、心筋カルモジュリンや心筋虚血に関わるATPaseなどの酵素活性、 ヒト肝ミクロゾームにおける薬物代謝の酵素系に関する研究、人屍例におけるフラビン (FAD) 含有モノオキシゲナーゼ (FMO)の臓器・組織分布などの研究が行われた。

また、「脳死」を社会的に認知させるための啓蒙活動に努力し、臓器移植コーディネーターの養成等臓器移植の推進に早くから尽力し、『移植コーディネーター テキストブック』(日本腎臓移植ネットワーク、1996)の編集も行った。

6_edited_edited.jpg

六代目 的場 梁次 教授 1998(平成10)年~2012(平成24)年

突然死の死亡機序に関する研究を行い、特に覚せい剤の心臓死、乳幼児突然死症候群の解明に努めた。

都立広尾病院事件(1999)等重大医療事故に端を発した異状死問題についても取り組み、2001年に「医療と法 関西フォーラム」を立ち上げ、法律家と医療・医学者との研究を行うとともに、2006年に始まった診療関連死の第三者機関モデル事業においても、大阪地域代表としてその運営に主導的役割を果たした。これらについては現在の法制化された医療事故調査制度につながり、その貢献は極めて大きい。

bottom of page